いまぼくらは、限りなく選択肢の多い時代を生きている。読者が摂取できる情報の選択肢も増えている。けれども、社会が複雑になればなるほど、キュレーターやガイドの必要性は大きくなると見ている。そういう意味では「雑誌」の役割は変わらないと思うし、編集者の役割は、むしろますます大きくなってくると思う。
The world changes. And also things get stale, and the dynamics change, as we know. There can’t be nostalgia. We intentionally never did a book because I wanted it all to be ephemeral. I didn’t want it to be about pictures about display, I wanted it to be live theater where you had to go or you missed it. And when the show ends, it’s passed on through narrative.
僕が提起したかった問題は、これはアートか、プロダクトか、それとも両方か、ってことなんだ。僕が言いたかったのは、プロダクトだって見方によってはアートだということ。アートであるためにアートの過程を踏む必要ない、ってことを示すために、わざわざアートの過程を踏んだ。反応は賛否両論だったけど、何かを伝えようと思ったら、リスクを負わなきゃいけないんだよ
マレイ・モス氏のインタビューから。2007年。
フォーマットが変わると「本とはなんだ」という再定義が必要になってくる。「本」は、その物体のことを指しているわけではない。「本」とは、持続して展開される論点やナラティヴ(語り/ストーリー)のことだ。雑誌も同様だ。ぼくが考える「雑誌」とは、アイデアや視点の集合体を、編集者の視点を通して見せるというものだ。新しいテクノロジーが登場すると、批判をする人は多い。新しい技術の登場とともに失われるものは確かにある。世界はユートピアじゃないし、そうしたコストはつきものだ。
僕は常々言っているけど、日本は『オジサン社会』ですよ。現場を知らないオジサンたちが仕切る。だからオジサンたちが分かるようにしか作られない。マスメディアが伝えた時点で実態とは違ったものに作り変えられている。こうして表面的な現象だけが消費されていく。だからユースカルチャーが本質的に根付いていかないんです
米原康正インタビュー
I don’t understand why the progression has to be a chart that looks like the same fucking chart as the growth of Mac or something. I don’t understand why I have to represent my success in the same way as a corporation’s growth.
一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。
As appalling as that was, what was equally disturbing was the lack of public outcry and the blindspot in the media. Political pundits and academics had the main stage but no one was thinking to speak with those who lived through the experience of torture.” by Kathy Berger.
Creativity is almost a mortal sickness. It’s not easy to be happy and creative: With creativity comes great anxiety, great effort, great desire for love. To be creative, you have to be curious, generous, to want to try to understand
- 『忙しい人』は、「忙しい」と周りに言えば、「カッコイイ、頑張っている」と他人が評価してくれると思っている。
『仕事ができる人』は、「忙しい」と周りにに言うことは、「無能の証明」だと思っている。- 『忙しい人』は、終了時間への認識が甘い。(なんとなく終わったらいいな~的な)
『仕事ができる人』は、絶対にここまでに終わらせるというスケジュール意識が強い。- 『忙しい人』は、納期意識がギリギリ。(納期寸前で作業にとりかかるので、その仕事のみに集中してしまう為に効率が悪い。)
『仕事ができる人』は、前倒し。(納期より随分前から作業に取りかかるので、2つ以上の仕事を同時並行処理したりする効率の良い仕事の仕方ができる。)- 『忙しい人』は、せっかくスケジュールを作っても、緊急事態・トラブルで乱れっぱなし。
『仕事ができる人』は、緊急事態・トラブルでスケジュールが乱される事がほとんどない。- 『忙しい人』は、いきなり仕事にとりかかり、仕事完了に近くなった時点で「仕事の目的と最終完成物」を考える。
『仕事ができる人』は、仕事の始めに「仕事の目的と最終完成物」を明確にして仕事にとりかかる。- 『忙しい人』は、「プライベートの時間を、とれたらいいな」的にしか考えていない。
『仕事ができる人』は、「プライベートの時間は絶対にとる」と最優先的に考え、その時間をホントに大切にする。- 『忙しい人』は、相手の期待よりちょっと低い仕事を行い、手直しで時間をとられる。その為に誉められる事も少なく、モチベーションも上がらない。
『仕事ができる人』は、相手の期待を少し上回る形の仕事を行うので、手直しがほとんどない。そのためお客様や上司から誉められる事も多く、モチベーションもアップしていく。- 『忙しい人』は、ホントはやらなくてよい仕事をたくさん抱えている。断るという事が苦手
『仕事ができる人』は、自分しかできない仕事が中心。頼まれた仕事を断る事ができる- 『忙しい人』は、仕事にとりかかって、段取りを考える
『仕事ができる人』は、段取りを考えて、仕事にとりかかる- 『忙しい人』は、段取りを考える時間を短時間で済まそうとする。
『仕事ができる人』は、段取りを考える時間を十二分にとる- 『忙しい人』は、根回しがヘタ。仕事が完成した後に、関係者から異議がでて、トラブルシューティングに奔走する
『仕事ができる人』は、根回し上手。仕事を始める前に、重要な関係者をリストアップし、根回しを完了させる。仕事完了後に関係者からの異論はほとんど出ない。- 『忙しい人』の優先順位は、納期期限が中心。納期が迫っているモノが優先順位が高い仕事になっている
『仕事ができる人』の優先順位は、仕事の効率とその仕事の目標への寄与・貢献度。- 『忙しい人』は、集中できる環境を作る事ができない。電話や誰かが話しかけてきて作業の邪魔をする為に、同じ事を何度も考えないといけない。
『仕事ができる人』は集中できる環境を作る事ができる。誰も思考や作業を邪魔しない環境を作る事ができる。- 『忙しい人』は、携帯電話にかける数より、かかってくる本数が多い。
『仕事ができる人』は、携帯電話にかける数の方が多い。携帯電話にかかってきて仕事を中断させられる事態を、先手を打つ事で防いでいる。- 『忙しい人』は、自分が他人に頼んだ事を忘れている。頼んだ相手も、頼まれた仕事を忘れており、それがトラブルを生み出す。
『仕事ができる人』は、自分が他人に頼んだ仕事は決して忘れない。時折、チェックも入れるので、相手も忘れることができない。- 『忙しい人』は、他人に事を頼むのがヘタ。依頼する際の打合せがヘタな為に、完成物を自分で手直しするのに時間がとられる。(人に頼まずに、自分でやった方が速いといった事になる)
『仕事ができる人』は、他人に事を頼むのが上手。依頼する際の打合せで詳細にイメージ合わせをする為に、完成物の手直しなどがほとんど発生しない。- 『忙しい人』は、学習する時間をとれていない。いつまでも同じやり方で仕事をしている。
『仕事ができる人』は、どんなに忙しい時でも学習時間の確保を行っている。学んだ知識をもとに、もっと効率的な仕事のやり方を求めて、いつもチャレンジをしている- 『忙しい人』は、同じような仕事でも、イチイチ考えながら仕事をしている。
『仕事ができる人』は、同じような仕事が発生したら、考える事なく、仕事ができる仕組みを作り上げている。- 『忙しい人』は、運動などにも時間がとれなかったり、睡眠不足で仕事をしてしまう。時には徹夜も。そのため体調不良をおこしたり、身体に無理して仕事をしてしまう。それが原因のミスも生まれたりしてしまう。体調によりモチベーションも不安定になる。
『仕事ができる人』は、適切な運動を定期的に行い、十分な睡眠をとり仕事を行う。体調不良によるミス、集中力欠如によるミスは少なく、常に安定したモチベーションを維持している。- 『忙しい人』は、「忙しい状態」を甘んじて受け入れてしまっている。
『仕事ができる人』は、「忙しい状態」事は絶対にイヤ。受け入れる事ができないと思っている。
Drawing is rather like playing chess: your mind races ahead of the moves that you eventually make
正直、僕にとっては“優れたスタイル”のほうが“優れたファッション”よりも魅力的。スタイルは、パーソナルだし、ひとりひとり独特なもの。見栄えよりも何よりも、自分自身の表現であることがいちばん大切なんだと思う
Tomorrow is always better than today.
Art is what we do. Culture is what is done to us.
僕のように「ハーフとして生まれたけど、バイリンガルでもなく、海外居住経験もなく、日本の名前で、世に期待されるハーフ的因子を持たないハーフ」を、僕は『残念なハーフ』と呼んでいます。
残念なハーフ達は「え、おまえ、英語、喋れないの?なんで?」とか「え、母国なのに行ったこと無いの?なんで?」とか「え、名前は一郎なの?ミドルネームは?無いの?なんで?」とか、本人の責に拠らない勝手な期待を負わされ、またそれを裏切ることにより失望の目を向けられる、謂れ無き迫害に怯えながら暮らしています。
「ハーフは半分という意味で差別的だから、ハーフと呼ばずにダブルと呼ぶ」とかいう言葉狩り主義者は全然本質が見えてない。問題はそんなところには無い。
日本に定住して、両親が日本語で話していたら、普通の日本人に育ちますよ。金髪碧眼で秋田弁しか喋れない加賀谷一郎君の生活とか、想像するだに恐ろしい。この残念なハーフ達は、自ら「残念なハーフである」と名乗ることは無いので、外国語を話す状況の発生や、海外旅行の話題等で発覚する以外では認知されづらく、実数は把握されていませんが、相当数存在すると考えられます。
あなたの周りにも、沖縄出身の日本人だと思っていたら実はハーフでした。とか、地黒で天パの日本人だと思っていたら実はハーフでした。とか、残念なハーフ達が隠れているかもしれません。で、この苦しみは残念なハーフ以外にはなかなか理解してもらえない。残念なハーフ同士でしか共有出来ない。「えー、なんで?なんかイイじゃん。羨ましいよ」とか言われる。お前ら全然わかってない。
残念じゃないハーフ(バイリンガルで、海外居住経験があり、ミドルネームを持つハーフ)にも理解されない。アイツらはハーフ界の上流階級であり、アイツらがハーフ然としているせいで僕らが残念がられるわけで、むしろ敵。将来的には『全日本残念ハーフ協会』を設立して残念なハーフの地位向上に努めたいと考えています。
A memorable quote from my interview with Koto Bolofo which took place in September 2011:
My memory is like that of an elephant. I always believe you take images and you capture them for that exact timeless moment. You suspend something. If it is an excellent picture, from the moment till you die, you will remember it. When I talk to older photographers, they remember a specific moment from a specific time. For that time and place, you are catching a suspension in this revolving world, the world revolving at the 3000 revolutions per minute, you are catching that moment and that moment will stick into your head if it is a good memory and good photo.